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摘 要
唐朝时,唐朝文学作品传到日本。其中对日本古典文学影响最大的是白居易。白居易是我国唐代著名的诗人,他光辉灿烂的伟大诗篇不仅在一代代的中华民族子孙中流传下来,鼓舞和激励着汉民族的子孙后代,还给日本的古典文学带去了深远的影响。白诗传入日本,在日本文学中的影响代表了两国文化的融合。日本古典文学在吸取着汉学养分的时候逐渐走出了自己民族特色的一条路。本课题计划以白居易为着重点,结合日本古典文学,以《源氏物语》、《枕草子》等为例,分析白居易对日本文学的影响。
关键字:白居易;日本文学;文化传播;文化的融合与发展
目 次
謝辞 Ⅰ
要旨 Ⅱ
摘要 Ⅲ
1 はじめに 1
1.1先行研究のまとめ 1
1.2白楽天の紹介 1
2 白楽天の詩が日本に流入 3
2.1流入前、日本古典文学の状況 3
2.2 流入後、日本古典文学に与えた影響 3
3 白楽天の詩が人気の原因 8
3.1 漢字の流入 8
3.2 白楽天の詩が日本人の美意識と一致する 8
3.3 白楽天の詩が日本知識階級の政治態度と一致する 10
4 おわりに 11
参考文献 12
1 はじめに
1.1先行研究のまとめ
白楽天は中唐の有名な詩人である。白楽天は日本文学に与えた影響が最大である。その影響を研究する人が多いが、白楽天の詩が人気の原因と引用されて具体的な例がそれほど多くない。
『白楽天の詩が日本古代文学に与えた影響』(楊知国・2008年)では白楽天の詩は漢民族の子孫後代を鼓舞と激励していて、日本の古代文学に深遠な影響を持って行きった。中日文化交流歴史の角度から、白楽天の詩は日本の古典文学に漢文化の影響を研究して、これによって先進的高度な文明が原始文明に向かって拡がる必然性を論証した。
『白楽天の詩が日本古典文学に与えた影響』(謝東芹・2011年)では時代の角度から、白楽天の詩が日本持久の影響力を分析して、さらに白楽天の文学影響力を発掘して、中日文学の融合した現象を研究する。『白楽天と日本平安時代の文学』(姚亜玲・2003年)では様々な作品に古人の評価から白楽天の影響を分析して、いくつの例で彼の影響を研究する。
『白居易研究 閑適の詩想』(埋田重夫・2006年)では白楽天の文学原理や生活原理の根幹しなやかな自己矜持を具えた自適(独善自足)の境地を形成すると考えられる。この領域を集中的に考察。著者のこれまでの白氏関係論文のなかから、閑適テーマの諸論考をまとめた。
1.2白楽天の紹介
白居易は、中唐の詩人。字は楽天。雅号は酔吟先生・香山居士。
772年、白楽天は鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。徳宗の貞元年間(785~805)の進士。官は武宗の時、刑部尚書に至る。左拾遺になるが、江州の司馬に左遷され、後、杭州刺史を任ぜらる。やがて刑部侍郎、太子少傅、刑部尚書を歴任する。晩年は、仏教を信奉して洛陽の香山寺にしばしば通ったので、香山居士(居士は、在家の仏教信者)と名のっている。
白楽天は自分の詩を四つに分かれる: 閑適、感傷、風諭、雑律。詩風は江州左遷を境に二つの時期に区分される。白楽天はこの時期に官僚として最も大きな熱情と使命感を持って王朝の平和と民の幸福のために働きった。それに、杜甫の詩風を受け社会の矛盾を風刺する様な詩を作り、自分の生き方も世俗にまみれず孤高を貫いた。詩は自ずと、社会の矛盾や民の苦しみを詠った風諭詩が多くなっている。白楽天の後半生は、この王朝の衰えていく時期にあった。詩も、白楽天自身の日常生活での思いや感情を詠ったものと平易・写実的なものが多くなった。それは、 閑適詩と感傷詩である。
白楽天の詩が日本に流入
2.1流入前、日本古典文学の状況
飛鳥・白鳳時代には、日本は全国の統一を実現した。飛鳥・白鳳時代から奈良時代までの間は、日本文学の黎明期であり、「上代」とも言う。
人々がまだ文字を持たなかったころ、長い年月、は口から口へと語り継がれていた。
七世紀の初めごろ、中国大陸から朝鮮半島を通って漢字が流入され、漢文と、自分たちの話しことばに漢字を当てはめることによって、万葉仮名が生まれた。漢字の流入により成立したのが『日本書紀』と『古事記』である。記紀は歴史書であるが、文学作品としての価値評価されている。
この時代の文学は、和歌であれ、歴史書や漢詩集であれ、のちの文学の規範となった。
『懐風藻』は日本文学における最古の漢詩集である。また、『万葉集』のような和歌集が生まれた。万葉初期の作品には個人としての作家性が見られなかったが、後期にはよく見られるようになり、柿本人麻呂や山上憶良、大伴家持といった有名な歌人も登場した。
2.2流入後、日本古典文学に与えた影響
白楽天の詩は中国国内だけでなく、『白氏文集』は当時の貴族たちのあいだで圧倒的な愛好をうけていた。日本古典文学に大きな影響を与え、その中では閑適詩と感傷詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白楽天の詩と比較されたことや、紫式部が上東門院彰子に伝授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品に、『枕草子』に『白氏文集』が登場し、『源氏物語』が白楽天の「長恨歌」からの影響を受けていることも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがいしている。
「空寒み花にまがへてちる雪にすこし春ある心ちこそすれ」(『枕草子』)
『白氏文集』巻十四にある。
「三時雲冷多飛雪、二月山寒少有春」(三時雲冷やかにして多く雪を飛ばし、二月山寒うして春有ること少なし)
この訳は、春夏秋の三時も雲は冷え冷えとして、雪を舞わせることが多く、二月になっても山は寒々として、春らしい季節は短い。
作者は公任の下の句は、末の三字「少有春」を取って下の句を作られていた。公任の下の句の出典が『白氏文集』であることを見破り、同詩を踏まえて上の句を付けて即座に返し、一首の完成した和歌を作り上げた手腕は高く評価され、作者の学識と機知は殿上の評判となった。作者はひとり悩みながら返事をし、評判を気にする一方、悪ければ聞きたくないと思うなど、純真さの中に気の強い一面があらわれている人物と思われる。
『枕草子』にはまた、次のようなエピソードも登場する。
「雪のいと高う降りたるを例ならず御格子まゐりて、炭びつに火おこして、物語などして集まりさぶらうに、『少納言よ、香炉峰の雪いかならむ。』と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も『さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この官の人にはさべきなめり。』と言ふ。 」
中宮定子が、せっかくの雪景色なのに格子を閉め切ってしまっていることを遠回しに注意し、清少納言もその意図を的確に察したのだ。ふたりとも白楽天の漢詩についての素養が身についていたわけだ。清少納言は白楽天が詠んだある漢詩のなかのフレーズ「香炉峰雪撥簾看」をとっさに思い浮かべ、同僚に格子をあげさせたうえで、御簾を高くあげた、というのである。
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