『河童』から見た芸術性

 2022-01-19 23:58:26

目         次

一 はじめに 1

二 資本主義現実に対した批判 2

三 言葉のユーモア 5

四 『河童』への思考 7

五 終わりに 8

致 谢 11

『河童』から見た芸術性

刘璐 20121322007

要旨:日本の文学史において、芥川龍之介は代表性を帯びた文学者の一人である。『河童』が生まれたとき、日本においてはちょうど資本主義の矛盾が非常に鋭かった。芥川龍之介の晩年はずっと陰鬱に生きていた。そのとき、日本において様々な社会問題が生じた。民衆と政府間の矛盾が鋭かった。したがって、民衆は当時の社会に失望して、心にいろいろな不満が生じた。それも作家が人生の最後の時代である。したがって、後期の作品には資本主義現実の残酷を表した内容がたくさんある。『河童』はその中での一つである。そのほか、『河童』も一つの面白い短編小説である。この作品は芥川龍之介がパラレルワールドを表現している奇しくも、滑稽なSF小説である。『羅生門』や『地獄変』の氏の作品のイメージとは一線を画した作品である。したがって、本稿は、主に芥川龍之介後期の『河童』について考察を行い、その資本主義現実への批判及び言葉のユーモアという二つの芸術性を探求するつもりである。

キーワード:資本主義;批判;社会;人間;醜さ;ユーモア;不思議

  

一 はじめに

芥川龍之介の早期の作品には歴史小説を主にして、昔の人や出来事について批判しながら、現代のことを風刺し、社会の弊害を指摘する。たとえば、『羅生門』、『鼻』である。日夏耿之介は初期の作品を『非常によい』と評価している。中期の作品には芸術至上主義的な要素が全面に出た『地獄変』などを書き、それに長編小説『邪宗門』に挑んでいる。『河童』は晩年の代表作として、河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に批判しており、当時の人々に問題を提起する。そのほか、『河童』の言葉も魅力的である。国内外の多くの学者は芥川龍之介とその作品にいろいろな研究を行っている。辻吉祥は「近代日本文学に与えた優生思想の影響に関する研究」という論文の中で芥川が『河童』を通して資本制と産児制度について批判を行うことが提示した。本稿はその論文を基礎にしてもっと深く『河童』の芸術性を探求するつもりである。一つは資本主義現実への批判という主題的な芸術性である。もう一つのは言葉のユーモアである。芥川龍之介の人生の最後では日本において資本主義の矛盾が非常に鋭かったので、その資本主義現実に自信を失ってしまった。そのために、彼の後期の作品には大体世の中にあった醜いこと、人間関係の冷淡が表される。言葉の面で、主にユーモアという手法が取られる。読むとき、面白いと不思議な感じがしてもっと読者の共感を起こす。『河童』は読者に不思議な世界へ引き入れ、表したいものが完璧的に読者に伝えられる。それはむしろ言葉の魅力と言える。したがって、本稿は河童の世界に入って代表とした『河童』を通して小説における資本主義現実に対する批判及び言葉のユーモアという特色を分析するつもりである。

二 資本主義現実に対した批判

1 『河童』について

それから、私は『河童』をめぐって少しずつ具体的にその芸術性を探求するつもりである。まずは小説の内容を通して資本主義現実に対した批判という主題的な芸術性を分析することである。『河童』は昭和二年に発表されて河童の国を見たと信じる精神病患者の妄想を借りて、社会や作者自身を辛辣に戯画化した作品である。それは河童の世界を舞台とした物語である。粗筋は精神病院に入院している患者の回想としてこの作品は始まる。主にある精神病患者の体験談として語られるが、河童の世界はすべてが人間の社会とは逆であり、出生はその子供の意志に任され、恋愛はひたすら雌の攻撃性を示し、失業者は肉にされて売られる。宗教は飲食や交合を旨とする生活教が盛んだが、その長老も自分の神を信じてはいない。結局、「僕」は人間の世界に戻れるのだが、河童の世界での価値観というものを身につけてしまったことから、人間の世界では精神病患者とされてしまう。それで「僕」は憂鬱になり人間の世界に帰ってきた後、なかなか現実に馴染まれないという物語である。

2 『河童』における資本主義への批判

小説の冒頭にはこういう話がある。「これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である。……最後に、――僕はこの話を終つた時の彼の顔色を覚えている。彼は最後に身を起すが早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰にでもかう怒鳴りつけるであらう。――『出て行け!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだらう。出て行け!この悪党めが!』」精神病患者からみると人間はややこしく、汚れた存在である。それはむしろ書き手が言いたがった話である。矛盾が鋭い資本主義の社会において多くの人々はお互いに利用して利益の最大限を追い続き、さまざまな醜い行いができている。いわゆる「悪党」という人は多くなってきた。したがって人間関係は冷淡になってきた。その上、書き手は精神病患者の口から言った話で人間の醜さを表すが、現実に失望すると嫌がっている気持ちがすることが分かった。この角度から人間を巧みに批判することはもっと読み手の共感が引き起こせるだろうと考えられる。小説中の主人公は「河童の言葉」を学ぶとき、河童のおかしい習慣を見つける。こう書いている。「その中でも一番不思議だったのは河童は我々人間の真面目に思うことをおかしがる、同時に我々人間のおかしがることを真面目に思う――こういうとんちんかんな習慣です。たとえば我々人間は正義とか人道とかいうことを真面目に思う、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかえて笑い出すのです。つまり彼らの滑稽という観念は我々の滑稽という観念と全然標準を異にしているのでしょう。」その話は見たところに河童は滑稽についてどう考えているかと述べたことで、実は当時の社会において正義と人道というものをいつも口にかけている偽りのブルジョアジーに皮肉するのである。河童の立場から見るとそんな人間はおかしくて不思議で、彼らの世界には存在しない。確かに現実の資本主義社会には見た目に正々堂々なのに、裏ではややこしく、卑劣の行為をするブルジョアジーがたくさんいる。普通の人間であればともかくとして、政治家の中でそんな人もいるとは甚だしいと思われる。彼らはどうも自由とか平等とかいつも広けるようで、実に少数のブルジョアジーの肩を持って多くの労働者の剰余価値を搾り取るのである。子供を生むについて人間は河童と比べて非常に異なる。小説の中で、こう言う。「河童もお産をする時には我々人間と同じことです。……けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、『お前はこの世界へ生れてくるかどうか、よく考へた上で返事をしろ。』と大きな声で尋ねるのです。……すると細君の腹の中の子は多少気兼ねでもしていると見え、こう小声に返事をしました。『僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。』……すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。」河童は自分の生まれることが決められる。彼らは子供の考えを大事にし、たとえ生まれるかどうかという問題でも子供の意志に従う。その逆に、当時の社会において、多くの人は愛情なく、情けなく、子供を生んで、世間の苦しみを味わわせる。それは河童の世界と鮮やかに対照している。愛情がないである以上、何のために子供を生むか。なんで彼らを不幸に生きさせるか。苦しく生きていくよりも、むしろ最初から生まれたくないというのは子供たちの心の声だろう。その点から見ると、河童の世界は理想的であるかもしれない。小説の中で、主人公は人間社会へ帰ろうと思っているが、バッグという漁師の話には、ある年を取った河童が一匹、本を読んだり、笛を吹いたり、静かに暮らしているということで、尋ねにいきたがっている。「僕は部屋の中を見まわしました。そこには僕の気のせいか、質素な椅子やテエブルの間に何か清らかな幸福が漂っているように見えるのです。『あなたはどうもほかの河童よりもしあわせに暮らしているようですね?』『さあ、それはそうかもしれない。わたしは若い時は年よりだったし、年をとった時は若いものになっている。従って年よりのように欲にも渇かず、若いもののように色にもおぼれない。とにかくわたしの生涯はたといしあわせではないにもしろ、安らかだったのには違いあるまい。』『なるほどそれでは安らかでしょう。』『いや、まだそれだけでは安らかにはならない。わたしは体も丈夫だったし、一生食うに困らぬくらいの財産を持っていたのだよ。しかし一番しあわせだったのはやはり生まれてきた時に年よりだったことだと思っている。』」4と書いている。そのとおりの河童は作者が理想的な存在だと思っているものかもしれない。人間も同じで、欲にも渇かず、色にもおぼれないというのは最高の境界に達し、元の善を取り返すかもしれない。その反対、資本主義の社会は人々は利益のため、剰余価値を追うため、自己を失って元のままの善をなくす。実は、書き手から見ると、いわゆる金なんか取るに足りないものに過ぎなく、最も重要なのは人間の心の質素と静かさだ。

3 芥川の資本主義への批判

『河童』は1927年3月『改造』に発表した芥川龍之介の短編小説である。それも芥川龍之介最晩年の代表作である。この時期の芥川は神経衰弱が進み、そのほかにも体中を病に侵された状態であった。さらには、同年1月に放火の嫌疑をかけられて自殺した義兄の借金と家族の生活とが、彼の肩にのしかかっていた。これらの重みに耐えきれずついに自殺を遂げている。この芥川の命日は「河童忌」と称される。人に宛てた遺書の中で、自殺の理由を「唯ぼんやりとした不安」と記したことはあまりに有名だ。『河童』はある狂人の河童の国での体験談という形式の風刺小説である。機知に富む警句や逆説をふんだんに用いながら,人間社会の痛烈な批判を河童の世界に仮託して描いている。当時の日本社会の暗黒、あるいは人間の道徳墜落を痛烈に風刺、批判した小説であり、同じ年の芥川の自殺の動機を考える上でも重要な作品の一つであるといえる。芥川龍之介の晩年はずっと陰鬱に生きていた。そのとき、日本において様々な社会問題が生じた。民衆と政府間の矛盾が鋭かった。したがって、民衆は当時の社会に失望して、心にいろいろな不満が生じた。当時、その人間心理を描く作品が生まれ、大体資本主義を批判したものである。芥川龍之介の『河童』はその時代を背景に小説を通して現実を猛烈に皮肉した代表的な一つの作品である。河童は現実に存在しないもので、小説において、人間と違う世界にいるものと描かれた。河童の角度から人間を見て、人間の醜さが窺えた。もっと読者の共感をそそる。

三 言葉のユーモア

1 『河童』の言葉の面白さについて

以上は主に『河童』の内容を通して主題的な芸術性を分析した。それから、私は主に小説の言葉の魅力を分析するつもりである。芥川龍之介の『河童』は面白い短編小説である。この作品は芥川龍之介がパラレルワールドを表現している奇しくも、滑稽なSF小説である。まず、『羅生門』や『地獄変』の氏の作品のイメージとは一線を画した作品である。主人公はおそらく人生という道に迷った男、しかしながら彼の体験した世にも奇妙な体験のすべてが夢幻であったと誰が断言できよう。したがって、言葉のユーモアという点は『河童』この小説の特色である。その特色は『河童』の中でこう表現している。「のみならず太い嘴の上に鼻目金をかけた河童が一匹、僕のそばへひざまずきながら、僕の胸へ聴診器を当てていました。その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に『静かに』という手真似をし、それからだれか後ろにいる河童へ Quax, quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、担架を持って歩いてきました。僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がった中を静かに何町か進んでゆきました。」その内容の中で、河童は組織もあれば、思惟もある生物であることが知られる。河童という生物は想像されたものだが、作者は彼らに人間性を授け、自分の生きている世界を持たせる。それに、河童は話すこともできれば、看病することもできる。したがって、その文字を読むとき、非常に不思議と面白い感じがする。知らず知らずのうちに読者はその面白さで好奇心を持って河童の世界へ引かれる。恋のことが河童の世界も面白い。「もっともまた時には雌の河童を一生懸命に追いかける雄の河童もないではありません。しかしそれもほんとうのところは追いかけずにはいられないように雌の河童が仕向けるのです。僕はやはり気違いのように雌の河童を追いかけている雄の河童も見かけました。雌の河童は逃げてゆくうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、四つん這いになったりして見せるのです。おまけにちょうどいい時分になると、さもがっかりしたように楽々とつかませてしまうのです。僕の見かけた雄の河童は雌の河童を抱いたなり、しばらくそこに転がっていました。が、やっと起き上がったのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかくなんとも形容できない、気の毒な顔をしていました。」その内容は雄の河童は雌の河童を追いかけることである。ユーモアの言葉においては、彼らの恋愛は我々人間の恋愛とはよほど趣を異にすることが知られる。我々人間には、恋というのは幸せを代表しており、偉大なものである。しかし、河童の世界では、恋というものは面白さがある。雌の河童は雄の河童に注目されるように、逃げてゆくうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、四つん這いになったりすると描かれる。そのところを想像して、我々人間は不思議の感じもあれば、面白い感じもある。

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