十九世纪末二十世纪初(1868~1911)中日女子留学生的比较分析

 2021-12-04 21:18:32

论文总字数:15700字

摘 要

十九世纪末二十世纪初,世界形势正发生着剧烈的变化。欧美列强通过第二次工业革命走向近代化,并开始了侵略他国,在世界范围内开发殖民地的道路。中日两国也受到了欧美列强帝国主义的影响,被迫打开国门。两国的领导者都深切地感受到了变革的需要以及对于新型人才的渴求。在这样的大环境之下,两国都开始了向海外派遣留学生,学习先进政治、经济、文化以及科学技术。并且在这些走出国门的留学生之中出现了女子留学生的身影。她们的出现标志着中日两国女性开始冲破封建思想的束缚,走向世界的舞台。本文通过比较这一时期中日女子留学生的人数、留学国家、政府的留学政策、做出的社会贡献等方面,把握当时中日女子留学的实态,以期对于当代女子留学有所借鉴。

关键词:近代、女子留学、留学史、女性史、留学政策

要 旨

十九世紀末から二十世紀初頭では、世界が大きく変わった。欧米列強は第二次産業革命を通して近代化の道へと進み、さらに他の国と民族を侵略するようになった。東アジアでは、中国も日本も欧米諸国による帝国主義の強い波の影響を受け、長年の鎖国体制が破られた。欧米の衝撃を受け、両国の指導者はいずれも国を変革すべきことを深く感じ、新しい人材を求めていた。このような環境の中で中日両国は海外に留学生を派遣し、先進の政治・経済・文化および科学技術を学び始めた。国から出た留学生の中には女子留学生の姿が現れた。それは当時中日両国の女性は封建思想の呪縛を突き破り、世界の舞台に入ったことを象徴していた。本稿ではこの時期中日女子留学生の人数、留学先、政府の留学政策、女子留学生の社会的貢献を比較し、当時の女子留学の実態を把握することにより現代女子留学への示唆を示す。

キーワード:近代、女子留学、留学史、女性史、留学政策

目 次

摘要……………………………………………………………Ⅰ

要旨……………………………………………………………Ⅱ

はじめに…………………………………………………………1

第一章 十九世紀末から二十世紀初頭まで中日女子留学に関する概況………2

1.1 留学先国と留学人数の中日比較………………………………………………………2

1.2 留学形式の中日比較…………………………………………………………………3

1.3 選んだ専攻の中日比較………………………………………………………………3

1.4 中日両国概況の比較分析……………………………………………………………4

第二章 女子留学政策の中日比較…………………………………………………5

2.1 中国の女子留学政策…………………………………………………………………5

2.2 日本の女子留学生策…………………………………………………………………6

2.3 中日両国女子留学生策の比較分析…………………………………………………7

第三章 女子留学生の社会的貢献…………………………………………………8

3.1 中国女子留学生の社会的貢献………………………………………………………8

3.2 日本女子留学生の社会的貢献………………………………………………………8

3.3 中日女子中学生の社会的貢献の比較分析…………………………………………9

第四章 中日の近代化における女子留学の意義…………………………………10

4.1 中日の近代化における女子留学政策の意義……………………………………10

4.2 中日の近代化における民間女子留学の意義……………………………………10

4.3 現代女子留学への示唆……………………………………………………………10

おわりに………………………………………………………………………………11

参考文献………………………………………………………………………………12

謝辞………………………………………………………………………………13

はじめに

十九世紀末から二十世紀初頭では、世界の形勢が大きく変わった。イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ合衆国の多くの西洋諸国は第二次産業革命で生産力と工業力が上がり、近代化の道へ進んでいた。自らの民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大し、さらに他の国と民族を侵略するようになった。東アジアでは、中国も日本も欧米諸国による帝国主義の強い波の影響で、長年の鎖国体制が破られた。欧米の衝撃を受け、両国の指導者はいずれも新しいものを受け、国を変革すべきことを深く感じた。

日本の場合では、嘉永6年(1853年)に四隻の「黒船」を率いたアメリカ合衆国司令長官兼遣日大使マシュー・カルブレース・ペリー(1794-1858)が日本に来航した後、日本は大きな衝撃を受け、明治維新の道へ辿り続け、「明治維新は日本近代の出発点であり、日本資本主義はここから成立、ないしは育成されていた」(田中彰,1977:31)とされる。明治維新による明治新政府の成立(1868年10月23日)後、海外留学は、西欧の先進文化の導入のために、最も重要な手段として期待され推進された。最も積極的に海外旅行および留学の必要性を強調したのが大久保利通(1830-1878)である。かれは、天皇制官僚機構の確立をめざし、制度の組織化、人材の育成、藩体制の打破を三つの重点項目として掲げ、とくにそのうち、天皇親政の体制を補佐しそれを支え、新しい日本のトップリーダーとなる人材の形成を、何よりも緊急課題と考えた(渡辺実, 1978:274-275)。そして、その考えをたびたび岩倉具視に進言し、また、海外留学派遣についての具体的な提案を行っていた。1871年10月、華族に対して勅論が出され、海外に赴いて修学することがすすめられた。しかも興味深いのは、留学、視察いずれであれ、「妻女或ハ姉妹」を伴って、妻や娘に外国の女子教育、「育児ノ法」をふれさせることがあわせて奨励されている点である(石附実,1972:27)。このように、当時の明治政府は近代的国民の形成に対し、女子の役割に注目していた。明治四年(1871年)11月12日、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣した大使節団である岩倉使節団の中では、日本最初の五人の女子留学生の姿が現れた。彼女たちは、津田梅子(当時6歳)、永井繁子(当時10歳)、山川捨松(当時11歳)、吉益亮子(当時14歳)、上田悌子(当時16歳)である(渡辺実, 1978:274-275)。

中国の場合では、1840年から2年間にわたって行われた阿片戦争、1856年から1860年にかけて清とイギリス・フランス連合軍との間で起こったアロー戦争、1894年(明治27年)7月(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた甲午战争(日清戦争)などの戦争で、中国の知識人は改革を行う必要性を深く感じた。若い士大夫層である康有為(1858-1927)・梁啓超(1873-1929)・譚嗣同(1865-1898)らの変法派は光緒帝の全面的な支持の下、戊戌の変法という政治改革運動を行った。大きな社会変動の中で、1872年中国は始めて公費でアメリカに留学生を派遣した(单玉梅,2005:45)。 その留学生は平均年齢が十二歳も超えない幼い子供たちであった。1872年から1875年の間で、清政府は120名の子供留学生をアメリカに派遣した。これは近代公費留学の発端であった(王奇生,1992:18)。

中国近代教育の中で、海外に留学した女性の第一人は金雅妹である。彼女は1881年にアメリカに留学し、1888年帰国した(田涛,2011:2)。その後、中国の女性は留学活動を進め、アメリカだけではなく、他の国にも行き、特に日本へと留学した人数は多かった。

この時期先進国に留学することは、日本の女性にも中国の女性にも勇気を出す大きな一歩だと思われる。本稿では、人数、留学先、学ぶ分野、帰国後の社会活動など多面的に、十九世紀末から二十世紀初頭までの中日女子留学生を比較し、分析することを目的とする。

第一章 十九世紀末から二十世紀初頭まで中日女子留学に関する概況

1.1留学先国と留学人数の中日比較

1868年から1911年まで、中国の海外に留学した女子留学生は主に日本と米国の両国を留学先国とした。他の国にも留学した女性はいただろうが、資料が乏しいので今確定させる証拠はない。

この時期の中国女子留学生の人数に関して通説もない。謝長法(1995)の中国人女子留学生名簿によると最初の女子留学生金雅妹を除き、日本に留学した女性の数は179人であったという。また、米国に留学した女子学生の数も確定ではないが、茆詩珍(2008)の「近代中国女子留美史研究」と張丹(2008)の「清末女子留学探究」によれば 、私費留学生は20人前後であり、官費留学生は52人であったという。この時期の女子留学生の総人数は250人を超えたことは事実であろう。周棉(1996)の「近代中国留学生群体の形成、発展、影響の分析と今後動向の展望」によると、この時期の中国留学生の総人数は23000人以上と推測できる。従って、女子留学生の割合は約1%であった。

日本の留学生史上で記録を残った女子留学生は表1の通りである 。

表1 日本女子留学生統計1868-1911(この表は渡辺実の『近代日本海外留学生史』の記述をもとに筆者が作成した)

留学年

名前

留学先国

専門

帰国年

形式

1871

永井繁子

音楽

1881

官費

1871

津田梅子

普通学科

1882

官費

(文部省)

1871

山川捨松

普通学科

1882

官費

(文部省)

1871

上田貞子(悌)

病で翌年帰国

官費

1871

吉益亮子

病で翌年帰国

官費

1871

2人

私費

1875

目賀田録子

私費

1885

岡見京子

医学

1889

私費

1885

加藤錦子

普通師範科・幼稚園保育科

1889

文部省

1887

幸田延子

音楽

1895

文部省

1889

津田梅子

生物

1892

文部省

1890

高橋瑞子

医学

1891

私費

1895

井上友子

医学

1901

私費

1899

安藤幸子

バイオリン独唱学

1903

文部省

1899

井口あぐり

教育学(体育)

1903

文部省

1902

宮川寿美

家政学

1906

文部省

1906

小此木マリ

英・米

英語

1910

文部省

1906

神戸絢

音楽

1910

文部省

1907

新井鶴子

心理教育

文部省

以上の表1のように、明治時期(1868―1911)記録に残った女子留学生は19人であった。渡辺実による明治全期文部省留学生国別派遣数では、派遣された留学生の総人数は683人であり、1873の文部省第一年報によると、当時官費生250人、私費生123人計373人の留学生があった(文部省,2015)という。石附実(1977)の統計によると、1894年までに、日本の留学生数は1242人であったという。従って、私費留学生を加えその数は大幅に増加することは推測できると思われる。つまり、明治全期の日本の女子留学生数は総人数の1%にたりないのである。

中国も日本も女子留学生の人数の割り合いが大きくではないが、中国女子留学生の人数のほうが多かったと推測できる。

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