论文总字数:9706字
摘 要
《史记》记载,公元前219年,刚刚完成泰山封禅的秦始皇为求长生不老派遣方士徐福携三千童男童女和五谷百工前往东海蓬莱国求取仙药,而徐福最终却“得平原广泽,止王不来”,自此开启了一段持续2000余年、连结东亚三国文明的罗曼史。
徐福的传承地在东亚至少有三十余处以上,但在很长一段时间都被认为不过是因传说出现的传承地而非真正的史迹。20世纪末,受考古学发现和中日关系正常化进程的影响,中国和日本迎来了前所未有的“徐福热”。
多年来,中日学者对徐福问题的研究不仅局限在文献上,还从考古学文化上进行印证,使两国文化的交流得以进一步加强。对徐福东渡传说的研究对考古学的进展、各个传承地的发展以及外交关系都具有重要意义。徐福东渡传说不只是一个历史谜团,更是中日文化关系研究的重要课题,将会作为中日文化交流的媒介,发挥更大的作用。
关键词:徐福东渡传说、徐福热、传承地、中日友好关系
要 旨
『史記』に、秦始皇帝の時代に徐福という方士が五穀と百工及び三千人の童男童女を連れて東海の蓬莱国へ不老不死の仙薬を求めていき、平原広沢で王となったという記述がある。
徐福の伝承地は東アジアには少なくとも三十余箇所が存在している。しかし、これらは長い間で単なる伝説の伝承地で歴史的な事実ではないと考えられてきた。二十世紀末史実の発見と中日国交正常化が始まって以来、中国と日本はかつてないほどの徐福ブームを迎えた。
徐福東渡伝説は考古学の進展、伝承地の発展や国交関係など多くの分野に対して、深い影響を与えた。将来も中日友好交流の鍵として、大きな役割を果たすと思う。
キーワード:徐福東渡伝説、徐福ブーム、伝承地、中日友好関係
目 次
はじめに(序論)……………………………………………………………1
第一章 徐福東渡伝説の由来と内容…………………………………………2
1.1 歴史的な背景…………………………………………………………2
1.2 文献からの考証………………………………………………………2
第二章 徐福東渡伝説の現状………………………………………………4
2.1 中国の現状……………………………………………………………4
2.2 日本の現状……………………………………………………………4
第三章 徐福東渡伝説の影響………………………………………………6
3.1 史実の発見―徐福村と吉野ヶ里…………………………………………6
3.2 徐福ブーム……………………………………………………………6
3.3 中日友好の使者……………………………………………………7
おわりに……………………………………………………………………8
参考文献……………………………………………………………………9
はじめに
徐福東渡の物語は、中国の権威のある史籍、『史記』に書かれている。しかし、『史記』に徐福についての記述は非常に簡単であり、「仙人を探して蓬莱(日本と思われる)に渡った徐福が平原広沢を得て、帰らなかった」と一言で表している。そのため、中国では徐福東渡伝説が本当のこととは認められなかった。徐福の伝承も民間の伝説だけになり、学者の研究対象にならなかったのである。完全に無視された状況とも言える。
しかし、1982年、この状況が一変した。徐州師範学院の羅其湘教授の研究報告書によると、1982年中国で地名の一斉調査を行ったため、江蘇省贛楡県にある徐阜村は、清の乾隆時代以前は「徐福村」と称し、また徐阜村の住民の間には、秦始皇帝が徐福を派遣して仙人を探し、不老不死の仙薬を求めたという伝説が広く知られている
本論文は文献分析を通して、徐福東渡伝説の発展現状を把握し、二十世紀末から各地の徐福東渡伝説が活発に発展した要因を明らかにし、徐福東渡伝説の影響と将来性を展望することを試みたい。
- 徐福東渡伝説の由来と内容
秦の時、中国から見える東海には方丈山、蓬萊山、瀛洲山の三神山(実は蜃気楼)があり、そこには神仙が住んでいると考えられた。徐福がそこの神仙は不老不死の仙薬を持っていると言い、その薬を始皇帝のために求めようと出航したのは、徐福東渡伝説の主体である。
『史記』によると、一度目の出航は何も見つけられず失敗したのは事実であるが、失敗したとは言わず,大魚に航路を阻まれるなどの理由をつけて始皇帝に報告した。そのため、始皇帝は童男童女やたくさんの技師(百工)、再度出航すると命じた。
しかし、今度徐福は戻ってこなかった。平原広沢を得てそこの王となったと言われた。この記述から、徐福の真の目的は日本への集団移民と推測できる。当時の方士たちは、焚書坑儒など始皇帝の暴政に苦しんでいたので、徐福は蔽難のために中国を脱出したとも考えられる。そのため、仙薬を求めるのはただつけられた理由である。
もちろん、日本に着いた徐福が本当に仙薬を探したことが日本各地の伝承として残っているので、最初は日本のどこかに三神山があることを信じていたと考えられる(日本各伝承地には蓬莱という地名がよく使われる)。
本章は徐福東渡伝説の歴史背景や文献からの考証について考察したい。
1.1歴史的な背景
徐福は始皇帝に許可を得、大船団を組織し、東海の中の三神山に不老不死の仙薬を求めて出発した。その時間は秦始皇帝が国を統一したBC221の二年後、BC219と言われる。秦始皇帝は三十歳の時急速に全国統一を成し遂げた皇帝である。徐福東渡伝説の歴史的な、時代的な背景は秦始皇帝その人に切り離せない。
中国を統一した始皇帝は、この前例のない巨大な権力を永遠に維持したい欲望が特に強かった。始皇帝の信頼を受けた方士は徐福だけでなく、盧生、宋母忌など何百人がいる。史記の記述によれば、次のような例がある。始皇帝は盧生の話を聞いて、真人(仙人)と会えるたくて、「朕」と自称せず、「真人」と改称した。また盧生が言った悪鬼を退けるため、咸陽周辺の三百カ所の宮殿は複道(空中の桟道)で繋がっており、始皇帝の行き先や居所も絶対的な機密にした。この事例によって不老不死について始皇帝の決意が見える。
1.2文献からの考証
『史記』は中国の正史に最も権威のある典籍である。徐福東渡は、『史記』の中に四カ所に次のような記述として見えているから、歴史的な事実としての信憑性が高いと言える。
(1)秦始皇本紀28年
「既に已る斉の人徐市(徐福)ら書を上つりて言う、海中に三神山有り、名づけて蓬莱・方丈・瀛洲と曰い、仙人これに居る。請う、斎戒し、童男女と之を求むことを得ん、と。是に於て始皇は徐市を遣わし、童男女数千人を発し、海に入りて仙人を求めしむ。」
(2)秦始皇本紀35年
「始皇…乃ち大いに怒りて曰く、……徐市ら費すこと、巨万を以て計うるも、終に薬を得ず、と。」
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