论文总字数:9963字
摘 要
“忠孝观”在中日两国具有广泛的全民性,在调整社会人伦的基本规范,探索思想道德教育的方法和途径等方面具有积极的社会价值。本文的第一章介绍了中国忠孝观的形成与发展,第二章介绍了日本忠孝观的形成与发展,第三章从伦理价值观、传统家族观、儒家思想的影响的角度比较了中日忠孝观,第四章介绍了中日忠孝观的革新。
关键词:忠孝观; 差异; 传统; 发展
要 旨
中国にも日本にも普遍的に存在する「忠孝観」は、社会人倫の基本的なマナーを調整することができるという積極的な社会価値がある。本文の第一章では中国の「忠孝観」の形成と発展を紹介し、第二章では日本の「忠孝観」の形成と発展を紹介し、第三章では倫理的価値観、伝統的な家族観、儒教思想の影響の視点から中日の「忠孝観」を比較し、第四章では中日の忠孝観の革新を紹介している。
キーワード:忠孝観 差異 伝統 発展
目 次
はじめに……………………………………………………………………1
第一章 中国の「忠孝観」の形成と発展 ……………………………………2
1.1 形成 ………………………………………………………………………………………2
1.2 発展 ………………………………………………………………………………………2
第二章 日本の「忠孝観」の形成と発展………………………………………2
2.1 形成 ………………………………………………………………………………………2
2.2 発展 ………………………………………………………………………………………3
第三章 中日の忠孝観の比較 ………………………………………………4
3.1 倫理的価値観の視点から比較…………………………………………………………4
3.2 伝統的な家族観の視点から比較………………………………………………………4
3.3 儒教思想の影響の視点から比較…………………………………………5
第四章 中日の忠孝観の革新 ………………………………………………………6
おわりに……………………………………………………………………7
参考文献……………………………………………………………………8
謝辞…………………………………………………………………………9
はじめに
「忠」は我が国の伝統的な政治道徳で、家族道徳「孝」の後に生まれた。文字の構造から見れば、「忠」は「中」と「心」からなっており、公正、信用の意味を表す。「孝」は中華文化で提唱されてきた行為で、子供の行為が両親や家の年長者や祖先の望みに背いてはいけないという意味で、安定した倫理関係の現れである。日本の「忠孝」観の具体的な誕生時間を確定するのは難しいが、日本人の生活環境に密接する同時に中国の儒家思想の影響も受けていることは確かである。中国の儒家思想は西暦7世紀後日本に伝わり、日本固有の「忠孝観」と結び付き、日本独特な「忠孝観」を形成した。「忠義と孝行を尽す」ことは日本人が生涯必ず履行しなければならない義務である。
中国にも日本にも普遍的に存在する「忠孝観」は、社会人倫の基本的なマナーを調整することができるという積極的な社会価値があるので、筆者は「忠孝観」を卒業論文のテーマにしたのである。
第一章 中国の「忠孝観」の形成と発展
1.1 形成
「孝」の観念は原始社会の末期に生まれた。母権制度から父権制度に変わった時、明確な血縁関係と私有財産制により、子供は直接両親から財産を相続することができるようになった。両親への恩返し、尊敬、哀悼の気持ちを示すために、孝の観念が生まれた。儒家の「孝」は宗族、社会、国家に拡張し、社会的な道徳準則になった。儒家文化の「孝」の思想は封建社会の統治秩序を守るのに有利なので、君主に重視された。ゆえに、「孝」が封建社会の道徳規範の基礎になったのもわかりにくくない。
原始社会には、君もなく臣もなく、当然忠君という思想はなかった。夏、商、西周には、族制と天命観が特権統治の強力的な手段になった。族制では血縁関係と共同利益を利用し、貴族集団内部の利益を守り、統治の目的を達成した。王室と血縁がない人に対しては天命論で思想的な統治を実施した。戦国になって、王室が衰微し、天道が変わったようで、庶民には「天」への疑いも現れ、天命論は信頼できなくなった。支配階級はなんらかの理論・思想を世論誘導道具にする必要を感じたので、諸子百家の学説から「忠」の概念が生まれた。厳密に言えば、中国の伝統的な忠孝観は早くも先秦時代に形成したのである。
1.2発展
漢代以後、封建政府が長期的に「忠」で国を治める政策を信奉し、伝統的な忠孝観が発達した。宋代には、民族の矛盾が非常に厳しく、社会全体が忠君思想を重視し、伝統的な忠孝観の発展は極致に達した。明清時期、専制君主制の弊害がますます顕著になり、専制君主制を否定する社会思潮が現れ、伝統的な忠孝観は大きな衝撃を受けた。代表人物は黄宗羲、顾炎武、唐甄などで、彼らの専制君主制への批判は思想解放の働きがあり、伝統的な忠孝観の変革にも重要な影響が与えた。辛亥革命によって清政府が倒れ、中華民国が成立した。専制君主制はもはや存在しなく、伝統的な忠孝観は大いに変化した。民主革命の先駆者・孫文は忠孝を十分に重視し、民族主義に言及する時、「中国固有の道徳を言うと、中国人は今までも忘れられないのは、まずは忠孝、次は仁愛、そして信義、最後は平和」と言っていた。こう見れば、孫文は忠孝を最も重要な道徳と考えていたようである。その上、孫文は民国でも、忠を尽くすことはやはり必要だと考えた。しかし、君主に忠誠を尽くすのではなく、国に忠誠を尽くし、民衆に忠誠を尽くし、四億の国民に忠誠を尽くすべきである。孫文は「忠」の元の意味をそのままに当て嵌めるのではなく、それに新しい内容を与えた。筆者は孫文の忠孝観は民主主義思想を持ち、人民の利益、中華民族の利益を代表するので、肯定に値すると思う。
第二章.日本の「忠孝観」の形成と発展
2.1 形成
五世紀以前、日本国内には「孝」という道徳観念は存在しなかった。応神天皇時期、儒家の文献が朝鮮半島から扶桑に伝わって、日本は初めて中国文化の思想体系に触れた。しかし、八世紀前期までは孝はそれほど大きい社会影響はなかった。それは当時の日本はまだ母権制から父権制に移行している段階にあったためであろう。日本では十七世紀ごろになって、はじめて「孝」は全社会に広まった。しかし、強調したのは子供から目上の人への一方的な義務であった。中国古代前期に強調された「親が子を慈しみ、子が親孝行する」という対等な観念は服従だけを強調する孝に変わった。その上、日本の孝道には仏教の成分も入り込んで、「恩」の作用を多く喧伝した。子供は両親に孝を尽くしたらもう両親に恩返し、「恩」は「孝」の前提である。これが日本的な「孝」の倫理である。「孝」と違って、「忠」は日本では昔からある観念である。その後、儒家文化が日本に伝来した時、日本は自分の状況に応じて忠の一部の意味を吸収すると同時に、「忠君」、「尽忠」の意味を留めた。
2.2 発展
飛鳥時代を経て、奈良時代に中国の儒家思想、特に「忠孝」が日本で広く伝播し、日本社会の発展にも日本人の精神生活にも積極的な影響をもたらした。「忠」の道徳観は儒家思想が伝来してからは日本の不可欠な倫理になった。
日本では戦国時代になると、封建化の過程で、本来は武士階級しか持たなかった「家」の観念は次第に庶民階級に普及した。鎌倉・室町時代には、武士の生活を支える習慣や倫理も庶民階級に広まった。生死を顧みず主人に忠を尽くすことは次第に全社会の道徳基準になった。
数世紀の戦乱を経験した幕府時代には、徳川幕府は幕藩体制を創立し、近代封建体制を確立した。その上、儒学を精神的な柱にして、忠義、名分、秩序、礼儀を重視する朱子学を強力に広め、特に「忠君」思想は武士道の核心になった。幕府は「忠」の効用の宣伝に力を尽くし、更には自分の命を天皇に捧げるのも美学に昇格した。「忠」は「公」を代表し、「孝」は「私」を代表し、武士集団の秩序の根本は「忠」である。幕府時代の日本で「滅私奉公」という倫理体系を形成した。
明治政府の成立に伴って、儒学思想は再び中央集権政府を支える中心思想になった。天皇と国民の関係は次第に親子関係に同化し、天皇は両親で、国民は天皇の子供で、政府は「忠孝一致」の観念の普及に力を尽くした。その結果、「忠」を中心におき、そして「孝」を「忠」の周辺におく「忠孝」思想は日本の国家観念の道徳的基礎になった。
昭和初期、日本の精神道徳は極度の苦境に陥った。軍国主義が政権を握って、「忠孝一致」の思想が絶対化になった。「孝」の観念は弱められ、「忠君愛国」に演繹され、国民は自分の利益を完全に諦めることと無条件に天皇と国家に従うことを呼びかけられた。軍国主義は「忠」は最高の倫理になり、主君に命を捧げることが強調され、極端性、盲目性、功利性の特徴がある。このように、日本の軍国主義者は民衆の良心を麻痺し、侵略戦争の道を歩いた。
第三章.中日の忠孝観の比較
3.1倫理的価値観の視点から比較
日本は世界で中国の文化、特に倫理的価値観から最も深い影響を受けた国であるが、日本の倫理価値観は中国のと等しいとは言えない。「忠」「孝」は中日の伝統文化では共に推賞される道徳準則であるが、価値体系に占める地位が違う。中国では親子関係と血縁関係に基づく「孝」の倫理を、日本では天皇の神聖に基づく「忠」の倫理を強調する。
中国の伝統的倫理価値観の中では、首位に立つのは「仁」で、元は君主を制約する道徳準則であった。君主臣民に通用する普通な道徳準則にされるとき、通常「孝」が基礎・核心になっている。中国の封建君主が強調する「忠」も「孝」の倫理によって実現すると思われる。中国の伝統文化では、「子」と「義」が衝突すると「子を殺して義を守る」例はあり、「孝」と「忠」が衝突すると「父を殺して義を守る」例はなかった。即ち中国の伝統的倫理では、支配階級は「忠」の伝播に力を尽くし、民衆は常に「孝」に偏重し、道徳実踐においては「忠を諦めて孝を守る」ような選択をする。従って、中国の伝統的倫理では、君主が要求される「仁」でも臣民が要求される「忠」でもどちらも「孝」を中心に発達した。「孝」は中国の社会倫理の基礎であり、倫理価値体系の核心でもあると言えよう。
「孝」は日本の倫理価値体系にも位置がある。しかし、「孝」は日本では、中国のように自身の社会形態と文化より自発的に生まれた物ではなく、中国文化から導入した「舶来品」である。
「忠」は中国の伝統的な倫理価値体系では、支配階級に強調されるとはいえ、とどのつまりは「仁」、「孝」の次に置かれる相対的な道徳準則にすぎない。孔子は「臣下は忠をもって君主に仕える」ことを主張しているが、その前提は「君主が礼をもって臣下を任用する」ことである。即ち、臣下から君主への「忠」は君主から臣下への「礼」と「仁」を条件に成立したのである。中国の伝統的な倫理価値観と違い、日本伝統文化における倫理価値の最大の特徴は「忠徳優先」と言える。日本伝統文化の倫理価値体系では、中国文化で強調される倫理道徳準則「仁」は、天皇制とは互いに受け入れられないと考えられるため、天皇と君主への義務と衝突すると、諦めざるを得ない。「忠」はそうではなく、全部の倫理準則に当て嵌まる美徳と認められる。
筆者は中国で孝を倫理体系の基礎・核心にすることは、家族制度を基本的な社会形態にし、血縁関係を人間関係の基礎にする、家族本位の社会価値観によると思う。元々「忠」の下に位置する「孝」が日本倫理価値の最高準則になったのは、天皇崇拝を中心とする神道信仰や武士集団の「主人から受けた恩に報いる」という意識と関係があるであろう。
3.2伝統的な家族観の視点から比較
中国も日本も家父長制であり、中国では早くも纪元前3000年に、日本では約平安時代末期に確立した。日本の家父長制は形成が遅いものの、非常に盛んであった。父権が数多くの権利を持ち、当主は祖先の化身として、家族の成員に畏敬される。しかし、中日の家族制度には相違が存在している。
中国の宗族制度は根強く揺るがしにくく、家族は国家の行政体系から徹底的に独立した。古代の中国人にとって、「国」は抽象的な概念で、平素の生活と密接な関係があるのはただ「家」である。特に庶民階級は、国家と直接の関係がないままで一生が終わることが多い。この視点から見ると、王朝の移り変わりは庶民の生活にあまり大きな影響を与えない。家と国は、中国の古代史を貫く最も重要な社会構成単位で、これ以外に、中間的な社会集団は存在しなかった。家の「親しみ」と国の「尊さ」のほかには、人の行為を制約する社会道徳準則がないので、中国人は個人主義の色が濃い。その上、中国人の家族制度は血縁関係を重視し、血縁関係を他の社会的、地理的な条件に優先させる。この視点から見ると、中国の家は閉鎖性が強い父系の血縁集団で、同じ祖先や苗字から構成された集団である。これも中国が「孝」を偏重する原因であろう。
日本の家は、家族成員の生死を超え、家業と財産を経営する経営体とも言え、これは日本の家の本質であろう。集団主義はイデオロギー分野における家族主義の現われであり、日本の「集団社会」は「宗族主義」の力を生かし、家父長制の構造で作られたものである。日本のこのような「拡大された家」は「孝」より「忠」の原理で秩序を確保する。日本では家族内部の「孝」よりも「忠」が重要な集団文化を形成した。集団内部で一番重要な道徳準則は集団への忠誠で、この原則を犯すと、集団から見捨てられる。その上、全社会が家族主義のもとに集結した社会集団であるので、集団から見捨てられた人は他の集団にも受け入れられないことは周知のことであろう。日本の伝統的な家族制度及び忠孝観は日本人の尽忠、奉公精神を育成し、強大な内在凝集力を持たせ、全民族の共同行動を起こしやすい。
3.3儒教思想の影響の視点から比較
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